鷲尾レポート

  • 2025.06.12

飛行機は、追い風ではなく、向かい風によって飛び立つ~一時の勢いを失った脱炭素の風潮を前に~

地球温暖化や空気中の二酸化炭素の増大などに、国際政治の関心が集まり始めたのは1990年代初めの頃からだろう。折から冷戦が終結し、米国一極体制が出現する中、それまでの米ソ2大核保有国の対立にとって代わって、地球温暖化問題が人類共通の課題と位置付けられ始めたのだ。

そんな雰囲気の中、1992年には、南米ブラジルで「環境と開発に関する国際連合会議」(リオ地球サミット)が開催され、以後、気候変動危機が、世界のマスコミ、なかんずく欧米メディアで大きく報じられるようになる。

その頃に放映された欧米テレビの報道番組のタイトルをランダムに列挙してみると、”Climate in Crisis” とか”Countdown to Catastrophe”(いずれも米国CNN)、或いは、”The Greenhouse Effects”、“Britannic Greenhouse”(いずれも英国BBC)などといった、人眼を引くタイトルが多く並んでいる。

欧米のリベラル・メディアの、こうした報道ぶりと、その基底の問題意識は、やがて当該国社会全般に染み拡がり、そうなってくると、マスコミの報道姿勢はますますセンセーショナルになって行く。一例を挙げれば、2000年代になるとCNNの報道番組のタイトルも”Planet in Peril”へと過激化し、或いはBBCのそれも、”Climate Chaos”といった風に、刺激的になってくる。

そうした風潮と根底の問題意識は、国際政治に益々反映され、2015年9月には、前述のリオ地球サミットでの決議の内容が、より詳細な、極論すればリベラルな、17の目標(ジェンダーの平等、貧困の撲滅、質の高い教育、そして地球環境保護等など)にまで昇華・拡散された上で、国連総会の場で正式に採択されるに至る(目標達成は2030年:アジェンダ2030)。

そして、そうした協定のフレームの下で、締約国会議(Conference of the Parties: COP)が毎年開催されることとなり、今日のSDGs目標達成に向けたメカニズムが急速に動き始めるのだ。

私見を交えた論評を許されるなら、このSDGs目標設定過程には2つの力学が作用していた。それらは、“対象範囲を拡大させる力”と“自由主義と全体主義との間に、なんともいえぬ親和性を持たせる力”の2つである。

前者は、互いに利害を異にする何人かの間で、取り上げる問題の範囲を定める際、一方が3、他方が5では交渉にならない。そんな場合、最小公倍数的に、交渉の範囲を15にまで拡げるやり方。妥協の余地もそれだけ広まろうというもの。

後者は、誰もが否定できないテーマ、例えば地球環境保全を唱えることで、あくまでも可能性としてではあるが、全体主義の立場からは自由主義を押さえることが出来るし、反対に、自由主義の立場からも全体主義を押さえることが出来る。

つまり、こうした目標設定のやり方は、資本主義的自由主義と全体主義的社会主義との、言い換えると、自由と強制の両面を兼ね備えた、云わば、国際社会での合意を得やすい性格を有しており、亦、国連そのものに、新たな合法的活動領域を与えるものでもあった。言い換えれば、環境問題のような、全地球的課題の設定そのものにも、国際政治の現実が顔を出すのは、やむを得ない仕儀なのだ。

そして後日、この複合的性格が、リベラル衰退・保守台頭の空気の中で、米国での第一次、並びに第二次トランプ政権のSDG批判、延いてはCOPからの離脱、にも繋がってくるのだ。

いずれにせよ、そうした米国の反SDGの動きは後日のこととして、今は2015年当時に戻って論を進めると、同年11月、トルコでG-20首脳会議が開かれ、その場で、米国のオバマ大統領(当時)と中国の習近平主席が、気候変動枠組条約の下で、全ての締約国に適用可能な議定書、或いは法的効力を有する合意を目指すことで一致、この2大国の交渉開始同意がなったことによって、各国がそれぞれに、地球環境問題解決のための国内法を整備する段階に入ることになる。

そして、その合意を具現するため、同年12月、2050年までにカーボン・ニュートラルを実現するというパリ協定(COP21)が締結される。

しかし、その種の、カーボン・ニュートラル宣言の実行に向けたイニシアティブは、オバマ政権の後継・第一次トランプ政権のCOP離脱などもあって、結局、EU諸国の手に委ねられることになる。

具体的には、先ず2019年6月12日、先進国の先鞭を切って英国がカーボン・ニュートラルを法制化。次いでフランスも同年同月の27日にその後を追う。

英仏両国が、6月中の法制化を急いだのは、続く6月28日~29日に、環境問題を主題とするG-20地域首脳会議が大阪で開催される予定だったからに他ならない(ドイツは、大阪会合の後、同年10月9日に、そして英連邦の一員カナダも同年12月5日に、更に、この流れの中で、EU27か国も12月12日、「2050年までの気候中立目標」打ち出すに至っている)。

***中国もその後、2020年9月、習近平主席が国連総会で、2060年までにカーボン・ニュートラルを達成すると誓約、韓国も同年10月、文在黄大統領が韓国国会の予算演説の中で2050年までに、そして、米国のバイデン大統領も大統領令で2050年までに、それぞれ「カーボン・ニュートラルを達成する」と歩調を合わせた。

そして、そんな米国が、第二次トランプ政権下、前任バイデンの大統領命令を破棄する指示をトランプが下し、国際協調路線から離れたこと、今や周知の事実だろう。

***この大阪会合の議長国だった日本も、会議の席上、安倍総理が脱炭素・気候変動対策、海洋プラスチックごみ対策などで積極的イニシアティブを発揮すると宣言、そうした流れの中で、安倍政権の後を継いだ菅政権の手で、遅ればせながら、2050年達成を目標に、カーボン・ニュートラル化政策を強力に推進する姿勢を鮮明にすることになる。

だが、カーボン・ニュートラル推進は、掛け声の大きさとは裏腹に、現状、その実績としては、余り大きな成果を出しているとは、言い難いようだ。キャノン・グローバル戦略研究所の杉山大志研究主幹は「1970年代初めから2020年代初めまでの50年間の統計を見る限り、世界の一次エネルギー供給に占める化石燃料《石油、石炭、天然ガスの合計》の割合は、過去8割を切ったことがない。

つまり、世界は殆ど低炭素化していない」と結論付けている(一次エネルギーの需要面からみると、2000年代に入り、需要はむしろ増勢にあり、需要が落ち込んだのはリーマン・ショック時と新型コロナの蔓延時期の2回だけ)。脱炭素の達成は、杉山解説によると、「日暮れて道なお遠い」、というのが実態のようだ。

何故、カーボン・ニュートラル化の努力が余り実っていないのか…。理由は極めて簡単だろう。

第一は、社会における経済成長率とエネルギー需要増加率との、ほぼ比例に等しい関係が断ち切れていないこと。つまり、エネルギー消費への企業や人々の行動様式を大きくは変えられず、ために社会全体の省エネ効率が変わっていない。

第二は、そもそも一次エネルギー需要に占める化石燃料の割合を低下させることは、時間もコストもかかる長期の課題であること。つまり、超長期のぶれない姿勢が必要であること。

第三は、原子力や再生可能エネルギーに化石燃料の代替を果たさせるには、社会全体でのコストをいかに公平に分担し合うかの合理的判断も不可欠で、その種の合意を得ることが出来、しかも、その合意を実行に移す稀代の政治力が必要となるためだ。

脱炭素には膨大な費用が掛かる。亦、化石燃料を他のエネルギー源に転換する場合、一国の産業構造にも、それ相応の変化をもたらさざるを得ない。

例えば、卑近な例を取れば、ガソリン車をEVに変えることが、多くの部品メーカーの仕事をどれほど奪うものか…、或いは、社会インフラをどれ程整え直さなければならなくなるものか…。そしてその種の産業構造変貌が、どれほど雇用構造を変えてしまうものなのか…。

雇用構造の変貌は当然、労働者にとっては従来の職の喪失、賃金の、多くの場合切り下げを、伴うものであり、そして、その種の恐れが強ければ強いほど、産業構造変化への抵抗、とりわけ打撃を直接受ける労働側の抵抗、延いては社会内部からの総合的抵抗もまた、より大きなものになってしまう。

要は、エネルギー源の切り替えは、雇用構造の激変、延いては、下手をすると、社会の分断をすら惹起してしまうものなのだ。

石油や天然ガスなどの化石燃料を多く使う、鉄鋼やアルミ産業従事者が、そしてガソリン車からEVに車種が変わることにより、仕事を失う自動車部品産業従事者などが、そうしたエネルギー源切り替え、延いてはカーボン・ニュートラル化に向けた動きに、強く反対するのは、或る意味、当然といえば当然のことなのだ。

そんな米国での潜在的被害者には、トランプ大統領の唱えるMake America Great Againの標語は、救世主の福音の声の如くに聞こえているに違いない。2025年3月4日、第二次トランプ政権下の米国の代表が、国連総会の場でSDGsを拒絶する演説を行ったのも、そうした米国内の政治状況を考えれば、不思議でも何でもないことなのだ。

***国連総会の場で、米国のハートニー代表は以下のように述べた。「先の大統領選挙では、米国国民から明確な指示が示された。米国政府は米国国民の利益に再び焦点を当てるべきだ…ジェンダーや気候に関するイデオロギーについて、トランプ大統領は明確且つ時宜を得た軌道修正を行った。アジェンダ2030やSDGsのようなグローバリストの取り組みは、投票で敗北した。よって我々は、それらを拒絶し、非難する」。

紙面も尽きてきたので、ここで結論だけを手短に記しておこう。

現在の国際政治は、従来優勢だったリベラルな価値観が劣位に回り、替わって守旧色の濃い保守の価値観が優位を取り戻し始めている。そんな価値観の優劣交代の基底には、急速に進む技術発展とそれが随伴する産業構造の激変、更には、その激変に伴う社会規範の百八十度の転換がある。

そんな風潮を背に再登場してきたのが、米国のトランプ大統領。彼は、脱炭素の流れを止め、DEI(多様性、公平性、包摂性)に背を向けようとしている。何故なら、そうした己の姿勢を支持する選挙基盤が背後に確実にあるのだから…。

だが、地球環境問題は、“明白にして、現実の危機:Clear and Present Danger”として、眞に今、眼前に存在している。そうなった責任が生産者にあるか、或いは、消費者にあるか、そんな問いを誰も発しない。トランプが何と言おうと、双方の行動変容が必要であること自体、今や誰も否定できないからだ。

しかし、「分かってはいても、止められない」のが、原罪を背負って生まれてきた人間の宿命。前述の杉山解説か示すように、過去50年、分かっていたはずの、生産者・消費者双方の側からは、いずれも劇的な行動変容は起こらなかった。

では、今後、どうすれば良いのか…。

それには、結局は、利用可能な二酸化炭素削減手段を総動員し続けること。具体的には、①省エネ、②生産者側・消費者双方の行動変容を促し続ける、③電化を一層促進する、④風力と太陽光を一層活用する、⑤水素ベース燃料の一層の活用、⑥バイオ・エネルギー、⑦CO2の回収、利用、貯蔵等などを、試行・駆使し続けることに尽きる。

もちろん、このような手段を実際に総動員できるか…、その種の手段が事前に想定している効果を実際に発揮するか…等など、いずれも保証の限りではない。亦、仮に総動員できたとしても、そうして生まれる新産業や新製品分野の戦場には、既に先着の外国企業が群れを成して陣を張っているかもしれない(例えば、EVや海上発電分野での中国企業群のように…)。

だが、放っておけば、現実の危機は深化するばかり。だから、今こそ日本は、国民の英知の全てをかけて、あらゆる知見と技術を投じ、言い換えると、「今日の全力が明日の最善を生み出す」ことを信じ、この長期マラソンを走り切らねばならないのだ。そうして辿り着いた、新しいマーケットに、上述のように、例え中国企業が既に陣取りを完成させていたとしても…。

そんな、あるべきビジネス戦略に思いを馳せたとき、筆者は、1980年代の日米通商摩擦最激化の時期、米国のビジネス誌(確かビジネス・ウイークだったと思うが)が米国企業に奮戦を促し、”Beat The Japanese Companies on the Japanese Market”のスローガンを掲載していたことを懐かしく思い出す。

既述の通り、現状、脱炭素の新分野では、既に中国企業が世界的にかなりのシェアーを占有済みである。だが、それ故にこそ、第三国市場ではなく、中国本土の本丸市場で、中国企業の買収や、部品などの分野での日本企業の強みを生かした、中国企業とのアライアンスを試行してみる価値はあるのではないか…。

幸いというべきか、中国企業同士の中国市場での競争は過激だと聞く。だとすれば、日本の脱炭素指向企業や優れた部品関連メーカーには、連携を組むべき中国企業もきっと見つかるに違いない。

眞に、中国企業と組んで中国企業と競う、つまり、そうした意味合いで、”Beat the Chinese Companies on the Chinese Market”的な戦略もあり得るのではないかと…。

もちろん、現下の国際状況でその種の冒険をすれば、米国から牽制球や批判・報復の矢が飛んでくることは想像に難くはないが、そこは地産地消の徹底を図り、これまでのようなグローバルな経営戦略を大胆に修正して、例えば米国マーケット、中国マーケット、途上国マーケットといった案配に、グローバル経営を、地域別経営に大きく分割、それぞれに独立性を付与し、分社化する。

そんな方向に向けた経営戦略変更もありではないだろうか…。

米国の最高裁判所の長い歴史の中で、公共の安全を図るための規制と表現の自由保護との間で、絶妙のバランスを保つ判例原則(Clear and Present Danger概念を軸とした法解釈)を確立したOliver Wendell Homes 判事は、「大切なことは、自分たちがどこにいるかということではなく、どの方向に向かっているか、ということだ」という言葉を残しているが、Me-ismの権化のようなトランプ政権誕生で、既存のビジネスのやり方を大きく変えざるを得ない今の日本企業にとって、立ち止まることは選択肢にあってはならないのだ。

「戦場で立ち止まることは、確実に死を意味する」とは、戦国の雄・上杉謙信の言葉。第二次トランプ政権登場により、国際ビジネス場裏は、文字通りに荒々しい戦場と化した。

こうした状況がいつまで続くものなのか、少なくとも2026年の米国中間選挙の結末を見るまでは確かなことは言えないが、その時期を過ぎても猶、混乱が是正されなければ、それは即、日本企業にとっては経営戦略転換の時、その時期までの貴重な時間、各社は世界戦略をどう変えるべきか、内部での慎重な検討が続いていることを期待したいものである。

本稿のタイトルに、自動車王ヘンリーフォードの有名な格言「逆境に陥ったら思い出せ。飛行機は、追い風ではなく、向かい風によって飛び立つ」を使ったのも、読者諸賢には、もうその理由がお分かりのはずだと、一人合点して、本稿を終わることにする。

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