辻講釈:日本政治の現状への拭い去れない違和感~自民党総裁選、語られなかった将来ビジョン~
自民党の指導者選びが終了、新たな総裁に高市早苗氏が就任した。以降、国会での10月15日の議決を経て、日本の新たな総理大臣が誕生する。
考えるまでもなく、自公両党は国会両院で多数を保持する座にはいない。だから、当たり前のことだが、議会で首班に選ばれるためには、いずれかの野党との小連合、或いは多数の野党を取り込んでの大連合、更に極端な場合には、反高市のムードが醸成されて、想定外に野党が大連立を形成する、結局、そのいずれかでなければ、新政権は成立しえない道理。
それ故、自民党の指導者選びに際しても、党首の座を狙う各候補は、次の段階での野党との協力の余地を残すため、いずれも持論を相当程度封印する形での論陣を張らざるを得なかった。
加えてもう一つ、今回党内選挙が争点を巡る論争に発展しきれなかったのは、初戦で生き残った2名の上位得票者間でのRun-Offとなるであろうと、戦いの当初から予測されていたこと。為に、各陣営はその後の上位2者間での決勝戦で、初回敗退した3候補の支持票を自陣営に取り込もうとの思惑から、対立陣営への政策批判を意図的に控える、そんな計算が選挙戦の根底にムードとして流れていたこと等など。要は、どこからも、そして誰に対しても、批判が出ない構図が出来上がっていたのだ。
しかし、こうした思惑・配慮・それぞれの選挙戦略が、結局のところ、議論を通じて国民に、真に提起すべき課題が何であるかを鮮明にする、そんな責任政党の言論戦本来の目的を曖昧にしてしまった。
要は、今の日本の政治が取り組むべき、日本社会の再生・経済の復権・平和外交を推し進めるための国際的発言力の回復等、そんな骨太の論点が全く取り上げられない、筆者のような昭和世代の生き残りには極めて歯ごたえの悪い、且つ野党との将来の連携に含みを残すために、ポピュリズム丸出しの題目を総論的に繰り返す、そんな魅力のないイベントとなってしまったように思えてならない。
更に、裏金問題はこの選挙を通じて、自民党内では今後、封印されることになったし、指導者交代が新しい血の取入れになったかというと、候補者の公約を見る限り、そんな気が全くしない。
亦、高市総裁は、今回争った各候補者に政権の一翼を担ってもらう意向を強調したが、要は、この発言など、各候補者間での政策姿勢の違いが、高市政権の政策を遂行して行く際(額面通りに遂行されるかはまた別問題だが…)、実際上では、殆ど障害にならないほど小さなものであることを、間接的に公言したようなもの。
***高市新総裁が、こうした党内融和姿勢を示さねばならなかったのには、当然に理由がある。決選投票の際の国会議員票だけで見ると、高市149票、小泉145票と、その差はわずか4票に過ぎないからだ。
逆に言えば、高市候補は結局、都道府県票で勝ったわけだ(都道府県票47票中、高市36票、小泉11票)。新聞解説などによると、都道府県票がこんな状況下、麻生派が「地方票の動向に従って、国会議員の投票先を決める」という方針を出し、それが大勢を決した。こんな書き方をすると、事態はまるで天下分け目の関ヶ原の小早川軍の動きの様。
***今回総裁選では、地方の声を反映させるよう、党員への割り当て票を増やせとか、或いは、自民党青年局・女性局主宰の討論会開催の形式が取られるなど、若手や女性の活躍の場が観られた。
だが、選挙を通じ世代交代が進んだかというと、上述のように、旧派閥の指導者たちが、それぞれの局面で己の影響力を十二分に発揮した形跡もあり、党内老若の政治力学は従前と余り変わっていないのではないだろうか…。むしろ、旧安倍派の再起など、石破時代に後退していたのとは逆の動きも顕在化している模様。
***直近、自民党の高市執行部の顔ぶれが決まってくると、その派閥偏重気味の旧来人事に、野党や自民党内の一部から批判の声があがり始めている。加えて、こんな時には自らの存在感を示しておかねばとの、公明党の姿勢も垣間見られるなど、高市総裁、目配りが過ぎた故の、逆の反響も導き出してしまったとも言える。
こうした諸々の動き、“過ぎたるは及ばざるのと同じ”の典型例というべきだろう。林官房長官や小泉農林水産大臣の立場も微妙。石破政権を担って来たとの自負心もあろうし、ここで飲み込まれては次がない、との計算もあろうし…。
いずれにせよ、現状が上述の様であると、では何のために、石破降ろしを強行し、“解党的出直し”に踏み切ったのか、この点、正直わからなくなる。石破退陣表明直前の各新聞社の世論調査では、石破総理への支持率が自民党への支持率よりも高いという、極めて異例の現象を呈したが、そうした状況を知りながら、敢えて石破降ろしを行い、その挙句の総裁選がこのような有様では…。
辿り着く推論的印象は、今回の石破降ろしはさながら、挙兵した源頼朝を追討するため京都より派遣された平維盛の軍勢が、水鳥の飛び立つ羽音に怯え、駿河の富士川で瓦解してしまった、そんな「幽霊の正体…実は、枯れ尾花」的な状況にも比すべき現象のような気もしてきてしまう。そしてそれは、平家滅亡の始まりだった…。
***今回参議院議員選挙の結果、比例区での得票率を見ると、これまで自民党を支持してきた有権者の三人に一人が今回、他党(参政党や国民民主党、更には極一部が公明党に…)に流れ出たことが、筆者のこの水鳥説の背景。岩盤だったはずの支持基盤が、急に軟弱化してしまったのだから、党幹部たるもの、慌てざるを得ない。
結局、今回の総裁選、最終的には、党の顔を“古いおじさん顔”から“女性”に差し替えるか、或いは、“若手リベラル”に取り変えるか、の選択になったが、結果は、故安倍首相の流れを汲んだ保守層復権にとって便利な、更に、参議院選挙で軟弱化した岩盤支持層を再度固定化する、そのために有利な、“女性”を選んだ選挙になったわけだ。
だが、高市総裁の前途を見る限り、自公両党だけでは議会の過半数を取れないという政治状況は変わらず、となると、選べる政策の選択肢も、結局、石破時代と余り変わらないような気がしてならないのだが…。
***では、自民党が仮に、総裁選を実施しなかったらとすれば…。“もし”や“れば”は今となってはどうでもいいことだろうが、敢えて、その“もし、れば”を考えてみると…。
筆者の感覚を、漫画チックに記させてもらえば、参議院選挙で負けた石破総理を、それでは済まされないと、「なおも、擦り切れるまで使って、使って、使い捨てる」。つまり自民党改革の矢面に立たせ、擦切らせる。そうして出てきた改革の果実を、後継の新指導者がゆっくりと摘み取ればよかったのだ…。
***マキアヴエリは「君主論」の中で、「新しい秩序を打ち立てるということぐらい、難しい事業はない」と言い放っている。何故なら、改革の実行者は「現体制下で甘い汁を吸っていた人々全てを敵にまわすだけでなく、新体制になれば得をする人々からも、生ぬるい支持しか期待出来ないものだから…」。
彼は亦、次のようにも言う。「変革というものは、一度起こると、必ず次の変革を準備する」。つまり、変化は地震が土砂気流を引き起こすように、連続して起きるもの。そしてこの、次から次へと発生する地滑りへの対応は、傷付いていても未だ使える指導者にとことんやらせ、彼が力尽きた際、次期指導者がその成果を頂戴する。
マキアヴェリは亦、次のようにも記す。「突然に地位を受け継ぐことになってしまった者にとって、心すべき最大のことは、何よりも先ず、しかも直ちに、土台を固めることである」。
亦、彼は次のようにも付け加える。「君主たるもの、もし偉大なことを成し遂げたいと思うなら、キツネとライオンに学ぶようにしなければならない…罠を見破るという意味では狐でなければならないし、狼どもの度肝を抜くという意味では、ライオンでなければならない。
つまり、君主たるもの、人をたぶらかす技と、敵を威圧する力の双方を保持していなければならない」。
そして、そんな君主ですら、改革の大変さを考慮すれば、先ずは先人に出来るだけ改革への扉を開かせておいて、最後の美味しいところを自分で獲るのだ、と…。
恐らく、自民党の“解党的改革”が齎す事態の深刻さを高市新総裁はよく理解している。
だからこそ、「政策運営に、今後は自民党一丸となっての協力を求める」挙党一致の姿勢と、国民生活の安定を志向して、自分は「働いて、働いて、働き尽くす」覚悟、つまり、一昔前の滅私奉公型の姿勢を強調するのであって、そうした姿勢が亦、社会一般に広がる、今風の緩み切った職場規律を引き締める、ある種の新鮮感を生み出すことにつながって行けば良い、との保守派としての計算も持ち合わせている。
言い換えると、高市総裁は多分、そのような“古さ”の強調が、自分の政治スタイルを一層鮮明化させることを本能的に熟知している。だが、そうした自分流を貫こうとしての人事に着手した途端、前述のような党内外からの摩擦を引き起こすのだ。政治とは所詮、そんなものなのだろう。
日本政治にとって真の課題は、前述したように、社会の再生・経済の復権・平和外交を推し進めるための国際的発言力の回復のはず…。
顧みれば、日本は嘗て、安心・安全を誇った社会だった。
筆者がまだ若年だった頃(確か1973年頃)、大阪の阪急梅田地下街で、不思議な事件が発生した。翌日の新聞報道を今もはっきり覚えている。
「…地下街の一角にある、某銀行の某支店…。窓口の営業が終了し、それでも入金に来る地下街店舗経営者のため、銀行は自動入金機械を地下街通路に面して設置していたが、ある日、その機械に張り紙がしてあって、「故障中のため、お金は銀行裏手に置いてある仮設金庫に入金してください云々」と書いてあった。
実際、指定の場所には仮設の小さな金庫らしきものが置かれており、ご丁寧にレシートも出る仕組みにもなっていた…。後刻、その張り紙に気づいた某店舗の店長が、それでは不用心だからと地下街警備室に注意を喚起するために報告に行った。
警備員が慌てて現場に出向いてみれば、機械は故障ではなく、別の場所に設けられていた仮設の金庫なるものの中に、実に68袋もの現金入り袋が投じられていた。地下街営業68店舗の、その日の売上金であろう総額は、当時としては大金の、実に2500万円もあったという。
恐らくは、緻密に計算し、詳細な金庫モデルを、表面金属風、実際は段ボールで作り、さもそれらしき説明と、さもそれらしき文言による指示で、2500万円を、あわやゲットできる状態にまでもっていった犯人の、その手法と発想に、筆者は驚きつつ、「あぁ、日本はそれ程までに、信用と信頼が社会に根付いているのか…」と、「半ば呆れ、半ば感心した」ことを、今でも鮮明に覚えている。
あれから50年余、日本社会は今や様変わりしてしまった。試みに今日一日の小生パソコンに送られてきた不信メールを2~3列記すると、自分では開設もしたことのない銀行の、小生口座なるものが閉鎖されるので至急連絡するように促すメールや、自分では使ったこともない、某ポイントの還元期間が過ぎそう、至急連絡するようにとの注意喚起メール等など、結構、それらしき偽メールが届いている。
尤も、1~2年前はもっとひどかった。
JRや国税庁からの、怪しいメールも頻繁に届いていた。或る時、そんなメールの一つに引っかかると、案の定、パソコンにウイルスが伝染、いきなり画面が切り替わり、大声が聞え「こちらはマイクロソフト社の担当、下記電話に連絡せよ」との指示が同時に画面に出てきた。
こんな事態になれていなかった当時の筆者は、言われるままに電話すると、たどたどしい日本語を使う人間が出てきて、修理費用の支払いのため、クレディット・カード番号を教えろという。背後からは、何となく英語っぽい発音の話し声が聞こえた。そこまで行くと、流石に筆者のようなボンクラも、おかしいと気づいて即電話を切り、クレディット番号を教えてしまっていたので、すぐにクレディット会社に連絡し、自分のクレディット・カードを無効化するとともに、気になったので、最寄りの警察に連絡した。
警察の窓口に概要説明すると、「担当課に連絡しておきます」との返事だったので、その日はそのままにしたが、その後、何日経っても連絡がないので、「あの件どうなったか…」と再度、警察に連絡してみると、「ちゃんと担当課につないであります」との返事、「それはわかっているけど、その後は…」と尋ねると、電話の主からは逆に思いもかけない逆質問を受けた。「どうして欲しいのですか…」。
「捕まえて欲しいに決まっているだろう、この馬鹿が…」と思って、その旨を、言葉を和らげて告げると、「担当課に連絡しておきます」と再度言われて電話を切られた。要は、警察は、被害に合わないように注意喚起はしても、海外にいるであろうと思しき、詐欺を仕掛けた犯人を、捕まえる気が最初からなかったではなかろう(あくまでも2年ほど前の話ではあるが…)。
まぁ、そんな愚痴は兎も角として、昨今の日本社会の治安は悪化し続けている。独居老人が強盗に狙われ…、行きずり殺人が横行し…、メールを使った詐欺が続発…、闇バイトに引っかかる若者が増え…。
警察官を装った詐欺が頻発…。亦、ネットを使った株取引が常態化、その結果、投資家の証券会社口座が乗っ取られて、勝手に株式を売却されてしまう等など…。SNSやネットが社会に行き渡り、それと共にネット詐欺の範囲も飛躍的に増殖する有様。
新聞報道などによると、偽メールの発信元は外国が圧倒的に多く、日本は世界からネット犯罪の標的にされているらしい。そして、こうした状況はもう、日本にとって、立派な安全保障の問題そのものではないのか…。
いかなる社会も基底は信用。そして信頼する・しないは、本来は、相手を見極めて決めるのが、これまでの常識。ところが、SNSやメールは、極論すれば、その相手を見定めるプロセスを介在させない情報伝達手段。そんな媒体に、フェイク情報が紛れ込んでいるとしたら…。
こうした状況は、社会集団にとっては一大事なはず。だから、筆者のような、新しい情報空間になかなかなじめない、そんな意味での“落ちこぼれ組“には、「日本に安心・安全を取り戻そう」と叫んで、その方向に向け政治を動かしてくれるリーダーがいつ出て来るか、今回の自民党の総裁選でも、そんな方向の問題意識を打ち出してくれる候補者はいないものか、首を長くして待っていたのに、期待は見事に裏切られた…。
***今の筆者の頭の中には、1960年代後半、ベトナム戦争で荒れすさんだ米国社会に向かって、自分こそは“法と秩序の擁護者だ”と叫んで大統領選挙戦を戦い勝利した、共和党ニクソン候補のイメージがある。
別のテーマに移ると、日本経済は依然、低迷から脱し得ない危機的状態にある。このところの株高や、ポツリ・ポツリと発表される経済の回復基調報告等に惑わされそうだが、冷静にデータを検証すると、日本経済のジリ貧基調は依然継続中。
IMFのデータでは、GDPで観た日本の世界経済に占める割合は、嘗ての15%から、今や4%にまで凋落している。それ故、経済規模で見ると、世界第4位の位置も、今のままでは早晩、他国に抜かれる運命をまぬかれないだろう。
国民の豊かさ…。この面でも、一人当たりGDPをOECDのデータで拾うと、日本は10位台から、今や30位台後半にまで下落してしまっている。
一方、日本の株価は、直近、極めて好況のようだが、それでも、嘗て世界の時価総額の10%台を占めていた地位からは大きく後退、今や、時価総額ベースで5%台へと急落。昔は時価総額で10位以内に犇めいていた日本の大手企業群も、今では、その栄光の地位を大きく落として見る影もない。
こうした状況を、筆者の個人的体験に置き換えて言うと、サラリーマン生活の後半期、謂わば、所属組織にあって、幹部の仲間入りを許された時代、給与水準はそれなりに上がったが、バブル崩壊の余波を受ける形でのデフレの長期継続で、その上昇率も今から振り返ると微々たるもの。
そんな中でも、“蟻とキリギリス”の教訓話を聞かされて育ち、「資源に乏しい日本には、人材という資源しかない。だから、働け…」とのスローガンで培われた団塊世代の貯蓄癖故、譬え金利は低くともせっせと銀行貯金に励んだものだった。
若い頃に着手していた株式投資は、バブル崩壊の影響で大損を経験、それ故、株式市場は金輪際近づくべきでないと思い定め、金融投資からは遠のいたまま…。
そんな中、悪いときには悪いことが重なるもの、デフレの長期化で政府がマイナス金利政策を取り始めると、なけなしの国内の預金は長い間、名目金利がほぼゼロの時代を迎える。筆者はこの間、米国に駐在する機会を得たが、その同時期に米国に駐在していた友人の話では、帰任時に残してきた米国銀行の預金には、ちゃんと普通並みの金利がついていた。
そんな海外預金を10年余、放置したままにしていたらしいが、その間、複利が積み上がって、なんと元本の、ほぼ倍近くに米国での預金額が膨れ上がっていたという…。それに加えての円安。米銀の預金を解約しての、手取りの日本円は膨れ上がったという。そんな羨ましい話を聞かされた筆者は、肌身感覚で「複利の世界、無視すべからず」を思い知らされたという次第。
この友人の経験を一般化すると、デフレとマイナス金利の時代、日本の預金者は、ほぼ金利ゼロで資金を銀行に凍結状態で置いたまま。対して米国の預金者は、譬え数パーセントでも複利による、価値増植世界に身を置いていたおかげで、放っておいても金融資産がそれなりに増加していた。この差は大きい。
当時世界第二の経済大国だった日本が、デフレ・マイナス金利時代を経由して、国内消費の弱さ故、世界第四位の座にずり落ちたのも、考えてみれば当然だったのだ。
製造業、延いては製造企業を中心軸に据えた政府の経済・金融政策が、低金利の選好・輸出の確保を優先させ、数多く打たれた積極財政策や円安政策。そして、そのためにも金利は超低利、もしくはマイナスが望ましく、そんな財政・金融政策を継続してきたために、日本は今や、財政赤字が世界で断トツの国。
逆に言えば、国民の金融資産は、財政支出増が齎しかねない金利上昇を恐れる政府の手で、複利の裨益を全く享受できないまま、長期の時間が過ぎ去った。おかげで日本の一人当たりの所得は、折からの円安の影響もあって、アジア諸国の中でも今や中位に位置するに留まってしまっている。
***OECDなどのデータによると、2025年のアジア(中近東を含む)での一人当たりGDPの日本の順位は第11位(全世界ベースでは38位)。上位の主だった国々は、シンガポール16万7000ドル、マカオ13万4000ドル、ブルネイ9万6000ドル、台湾7万8000ドル、韓国6万5000ドル等など、対して日本は5万5000ドルだそうな…。
尤も、失われた30年ではあったが、日本企業はそれなりに健闘してきた。高収益を続け、海外投資を伸ばし、株式市場の洗練度が増すにつれ、株主還元も進めてきた。それでも手元には、内部留保がたまり続けた。
しかし、裏を返せば、そんな日本企業の経営上の問題が、少なくとも4点指摘され得るだろう。①投資に励んだが,その殆どが海外投資。国内には、人口減少や国内消費の低調さ故に、余り投資していない。つまり、国内ではケインズの言う、投資の乗数効果が働かなかった。
②国内市場の将来不安故に、収益を元手としての賃上げには積極的にはなれず、為に労働分配率は低下の一方を辿り、それが亦、国内消費を低迷させ続けた。③イノベーションはスローガンとして標榜されたが、革新的技術・前代未聞の新製品開発には至らなかった(EVや脱炭素技術を見つけ出しても、その商業化には中国などには後れを取った)。
④ITやAIなどの分野への経営資源の投入が、中国などに比べて大きく遅れた等など…。つまり経営にAnimal Spiritが決定的に不足。
高市新総裁は、こうした根本課題にどう立ち向かって行くつもりなのだろうか…。出生率が大幅に低下し、将来人口が急減すると予想される中、国内市場を成長させる難しさや、企業に国内投資を増やすことを要請する困難は、想像するに余りある。<
恐らく今必要なことは、賢く縮む知恵と、そこに至る道程を描く創造性と、そうなった場合の社会生活の在り様を予見し、今からその準備をするビジョン創りだろう。
もう40年以上も前、筆者がニューヨークに駐在していた頃、当時大統領だったレーガンが、某年の年頭一般教書演説の中で、「ビジョン無くして栄えた国はない」と宣っていたが、今更ながら、そのレーガンの言葉の持つ意味の大きさを痛感する。
日本にとっての骨太の課題の最後は…。低下し続ける経済力が、日本の外交能力を損なわないはずがない。それを今後、どう挽回するか…。
考えてみれば、高市自民党総裁も大変なタイミングで、与党の責任者の座に座ることになった。10月15日の国会で総理の座を射止めても、直後の17日から19日には靖国神社の秋季例大祭がある。これまでは、この例大祭に高市議員は参拝していたが、今年は…。
10月末から11月にかけて、重要な外交日程が山積している。10月31日からの、韓国でのAPEC首脳会議に向け、その前に①先ずは一連のASEAN各国との首脳会議が設定されている。その後には②米国のトランプ大統領が訪日する。そして、③APEC総会の場では、当然のことながら主催国韓国の大統領とも会談するだろうし、④この機会を利用しての日中首脳会談の設定も、外交当局の間では、当然試みられているだろう。
そんな一連の会合を前に、高市総裁は従前通り、靖国参拝を行えるだろうか…。
参拝に行けば、韓国や中国首脳との関係(米国も、恐らくは参拝を抑制するべし、との姿勢)が傷つき、行かなければ国内保守派の失望を招く。政治指導者が直面する二律背反の立場に、高市党首は早速立たされるわけだ。
おまけに、そうした最中、10月末には日銀の金融政策決定会合が開催され、事前予測では金利の引き上げが決まるのではと…。ところが、高市新総裁は、積極的な財政政策と緩和的な金融政策を志向している。そんな新総裁の姿勢に、日銀はどう反応するのか…。そんな日銀に、高市新総裁はどう対応するのか…。そして、そうした時々の選択が亦、日本の社会や経済の先々に大きく響いてくる。
国民の生活に直結する経済課題への、こと細かい政治対応が、即、日本の将来を規定する大きな問題に直結するメカニズムが明瞭になっている今の日本…。財政と金融、為替などと言った、経済活動を統制する手段を、或る意味で失ってしまった現在の日本…。政治は経済に従属してしまうのか、或いは、それでも経済をねじ伏せることが出来るのか…。
そんな日本の政治の指導者とは、真に大きな責任を背負った、その意味では十字架を背負ったキリストの如くにも見えてくるのは、浅学講釈師の曇り眼鏡故であろうか。
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